東京高等裁判所 昭和29年(う)1539号 判決
被告人 吉田二郎
〔抄 録〕
本件控訴趣意(一)乃至(三)の要旨は、被告人は原判示日時場所において実母フジを殺害する目的で野球用バットを以て同女の頭部を一撃し之により既に同女は死亡したものと思い隣接の自室に移つたところ間もなく同女の被告人を呼ぶ声を聞いて初めの六畳間に戻つてみるとフジがその頭部から血を流しているのをみて驚愕のあまり殺害行為を止めたので、その目的を遂げなかつたものである。故に同所為は尊族殺人の障碍未遂行為にほかならない。然るに原判決において、被告人はフジが負傷したのをみるや驚いて自ら殺害行為を中止したのであるから中止未遂なりとして、之に対し刑の免除の言渡をしたのは、事実の誤認より延いて法令適用を誤るに至つた旨主張するものである。
故に、まず、原判決引用にかかる諸証拠によつて事実の推移をみるに、被告人は、かねて賭博等に耽つて借財が嵩んだ結果実母吉田フジや姉吉田澄子等にも一方ならず心配をかけているので苦悩の末自殺の決意をすると共に自己の亡き後に悲観しながら生き残るであろう母親の行末は不憫であるから寧ろ同時に母をも殺害して同女の現世の苦労を除いてやるに如かずと考え、原判示日時に自室六畳間において電灯を消して就眠中の同女の頭部を野球用バットで一回殴打したところ、同女は呻き声を出したので早くも死亡したものと思い、一旦隣接三畳の自室に行つたが、間もなく同女が自己を呼ぶ声を聞いて再たび六畳間に戻り、同女の頭部を手さぐりし且つ電灯をつけてみると、その頭部に傷ついて血が流れ出ているのでその後は同女に対する殺害行為を加えなくなり、そのため同女の頭部に原判示部位程度の負傷をなさしめたに止まつたことは、明らかである。
そこで、進んで、被告人が右の如く実母フジ殺害行為に着手したのに既遂の域に至らなかつた原因につき討究するに、原判決引用にかかる被告人の検察官に対する供述調書等のみによると一応それは原判決および弁護人答弁の如く被告人の自発的中止にあるが如き観がないでもないが更に汎く原判決引用の証拠のほか、被告人の司法警察員に対する第一、二回供述調書、吉田澄子の検察官に対する供述調書および司法巡査秋葉正雄の捜査報告書等検察官所論の諸証拠をも綜合勘按すると、被告人は初め母フジに気付かれないうちに同人を殺害しようと計画して消燈して室内で一撃したのに予期の効果を奏せず、母が頭部より流血して痛苦している場面に直面するや今更ながら事の重大性を痛感して驚愕すると同時に、既に犯行の被害者たる母親から自己の行動の結果を覚知された以上そのまま当人殺害の予定行動を継続することは直ちに自己の犯行を他に知らしめることになつて極めて不利なるを連想し、爾後重ねてフジに対する攻撃的行動を取らず、ひたすら事態を糊塗して犯跡を隠蔽するために母の傷口の手当をしたり、ことさらに母の負傷を隣家に告知に赴いたり、更に、室内の箪笥抽斗をあけたり又は便所の戸や高窓を開いて外部より侵入者があつた風を装うなどに努めていたことを認めるに十分である。故に、被告人の本件殺害行為中絶は、被告人の自由意思に基く中止未遂というは正当ではなく、単に自己の所業の中間的事態の発生に早くも自ら驚愕恐怖に襲はれ既遂に至らしめる意力を喪失した結果であつて即ち無形の心理的強制ともいうべき客観的障碍による未遂の一態様と認めるを相当とする。
然るに、原判決は、同じく、被告人が「同女が負傷したのをみて驚き」としながら、之を以て直ちに、「自ら殺害行為をなすことを中止した」ものとして、本件行為を以て被告人の自由意思による中止未遂に属するものとして、之に対し刑の免除をなすに至つたのは、検察官所論の如く事実を誤認し延いて法令の適用を誤つたものと謂はざるを得ず、此の点において破棄を免れない。